hiro kawanaka
Rule,Britannia! (艦これ版)
updated
歌詞資料は聞き取りと思われるため修正を加えています
Atsumi Yさんのご意見により一部修正して再アップ
歌詞の内容から考えて軍需工場の女子勤労動員の映像にしたかったのですが、今回は航空機整備の乙女たちの映像にしました
2023年3月4日夜に削除した動画については、今ここで詳しいことを書くわけにはいきません。
削除した動画の共通点を考えて察していただけると助かります。
完全な奇襲だった、とだけ記しておきます。
最初に出てくる2人の女性は江戸川蘭子と能勢妙子
(たぶん右側が江戸川蘭子で左側が能勢妙子だと思うんだけど、間違ってたらゴメン)
しかし「愛路(あいろ)」という言葉は誤植と思われるため、この動画では「隘路(あいろ)」としています
歌詞資料が見つかったのでつくってみました
「叱咤(しった)」や「銀鞍肥馬(ぎんあんひば)」はともかく「征鞍(せいあん)」は聞き取りではまずわかりません
なお、音源は以前akiraplasticさんにいただいたものです
マレー沖海戦ということで、陸攻隊の映像とマレー沖海戦の画像を中心に編集してみました
4番の「リーフ」はサンゴ礁のことですね
再アップしても映像が一部乱れるので、映像の部分を差し替えました
(原因不明。アップした時は問題なく、ある程度時間が過ぎると映像が乱れるようです。意味がわからん)
もしこれでもダメなら、静止画にします
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歌詞は聞き取りです
お百度まいりとは、神仏に祈願する目的で、同じ神社仏閣に百度参拝すること
また「断ち物」といって、神仏に願掛けをした時に自分の好きな食品や嗜好品もしくは薬などを絶って禁欲により願掛けを強力にする、ということをする人もいたようです
それから蔭膳とは安全祈願のひとつで、大切な人が遠くにいるときに飢えを感じたり、不運な事態に遭ったりしないよう、無事を願って食膳を準備すること
戦争中は、戦いの場に赴いた家族の安全を願って、蔭膳を準備することもあったそうです
他にも千人針(千人むすび)なんかがありますが、出征した家族の無事を祈る気持ち、スゴイなぁ
聞き取り協力:JK1ACRさん
昭和12年8月9日、第二次上海事変のきっかけとなった大山事件(上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉と斎藤與蔵一等水兵が殺害された事件)が発生
作詞者の松島慶三(海野啓一はいわゆるペンネーム)は8月12日におこなわれた大山勇夫(死後、大尉に昇進)の海軍葬儀に出席しています
(松島慶三は当時現役の海軍中佐で、昭和8年ごろ陸戦隊の参謀だったとのこと)
この葬儀で弔辞を読んだのが大山大尉の同僚の中隊長だった貴志金吾中尉で、彼をモデルにした映画「上海陸戦隊」でこの時の様子が再現されている
貴志中尉は上海陸戦隊本部北方の広中路で夜襲してきた支那軍を相手に「大山の敵は必ず俺が打つ!」と叫びながら激戦を展開、昭和12年8月16日午前9時ごろ、壮烈な戦死を遂げた。享年27
松島慶三は、貴志金吾が戦死した日の朝に土嚢陣地で彼と言葉を交わして挨拶していたようです
そのためか、「壮烈貴志中尉の歌」という曲の作詞もしています
youtube.com/watch?v=FMYcdtnuH_E
1:聖戦序曲
乱雲が西も東も空全体を暗く覆っている
混沌とした中、闇をものともせずに
朝日が昇る東方から
敵を倒せという聖戦の命令が下された
陸海軍の精鋭が整然と並び
大空を飛行しているのは、わが皇軍の航空隊である
戦場では様々な兵器による爆発があちこちできらめくように光り
砲撃や爆撃の音が響き渡っている
2:父母が歌う
わが日本に刃向う敵兵を
迎撃するのは今この時だ
朝に夕に手を合せて
お前の活躍を祈っている
勇敢に戦って大和魂を見せてほしい
臆病な態度だと日露戦争を戦った勇士に笑われるぞ
お守りとして有名な千人針をつくっているが
この年老いた母の生命を分け与えるようにして縫っている
3:友が歌う
明日は嵐の中を君の航空機が飛ぶのだろうか
冷たい北風の中で夜食を摂っているのだろうか
なんにせよ、必ず無事でいるんだぞ
昨日まで一緒に働いていた仲間ではないか
今日は私が独りで工場のハンマーを振っているが
その波動は私の想いを乗せて君に届くだろう
さあ聞くんだ、農作業の鍬の美しい音を
さあ見るんだ、君の活躍を伝える新聞の印刷機は火花を散らす勢いだ
4:妻が歌う
雪が降り積もる大陸には
私の父上の骨もあります
日本を護るために戦う愛しい夫の
お側を離れませんよ、私の心は
防御用の鉄兜にガスマスク
敵弾からこの真綿があなたを守ってくれますように
幼い我が子と一緒に心からの
万歳を叫んであなたの活躍を祈っています
5:銃後斉唱
皇軍が勝って世界中に
光が満ち溢れる朝が来たその時は
戦場で勝利の歌声が響き渡るのを遠く離れた日本で聴きながら
どんな困難にも挫けない強い心を育てます
小銃や大砲の火薬の煙が立ち込める戦場で
魔物のような敵を残らず倒すことを君に期待します
さあ征くんだ、にっこり笑っている我が友よ
さあ征くんだ、勇敢な日本兵よ
日本軍は盧溝橋の近くにある良郷、長辛店などを制圧すると平頂山の支那軍にも攻撃をおこなった
昭和12年8月22日午後、長尾部隊は支那軍を撃退して平頂山を占拠
その夜(23日午前二時ごろ)、支那軍の夜襲により長尾一彦中尉が戦死
この戦況を報告するために、負傷して盲目となった伍長が、左手と右足に重傷を受けて歩けない一等兵を背負って伝令となり友軍の陣地に向かった
血染の伝令
youtube.com/watch?v=EV2mayhwqkw
(まあ、もちろんこの二人以外にも何人もの兵士が友軍に戦況を報告をしています)
日本軍は「長尾中尉の弔い合戦だ!」と叫びながら反撃を開始、8月25日の夕方には平頂山に再び日章旗が翻った
タイトルの長尾一彦中尉(戦死後、大尉に昇進)は陸士四十四期、山口県の周防大島(屋代島)の出身、享年28
剣道二段の腕前で、前年秋に結婚したばかりだったそうです
作詞の藤田傳雄は当時の山口県立大島商船学校(現在の大島商船高等専門学校)の教諭
地元の勇士を顕彰したかったんだろうなぁ
歌詞の最後に出てくる「嶽山(だけさん)」は周防大島にある山で、その美しさから「大島富士」とも呼ばれている
今年も少しづつ動画をアップしていきます
映画「蛇の目定九郎」(主演・市川右太衛門)の主題歌
仮名手本忠臣蔵に登場する「斧定九郎(おの さだくろう)」は、現在でいうところのモブキャラ。
このモブキャラしか役が付かなかった初代・中村仲蔵(市川右太衛門)は、なんとかして斧定九郎をメインキャラにして目立ちたいと考えた。
神社に願掛けをした帰り道、にわか雨が降って来たのでソバ屋で雨宿りをしていると、破れた蛇の目傘を差した月代(さかやき=髪の毛)が伸び放題の浪人がやってきた。その姿を見た仲蔵は、これだ、とひらめいて・・・
キャラを変えた斧定九郎は大ヒットし、中村仲蔵は一躍人気者に。
するとモデルにした浪人が「勝手にマネしやがって、カネよこせ!」と怒鳴り込んでくる、というオハナシ
(だと思う。映画も原作も見てないので)
なお、二番の「仇八(あだはち)」はこの映画のヒロインの名前です。
(まったく同じ歌詞だったとは驚きでした。今回は平仮名を漢字にしたりしてちょっぴりアレンジしてます)
二、四番は聞き取りです
1、2番 佳館杏ノ助
3、4番 ザ・ドリフターズ
5、6番 寿川有里
7、8番 水原弘
9、10番 佳館杏ノ助
11、12番 フォレスタ
13、14番 島津亜矢
もの悲しい、ストーリー性抜群の歌であるだけに、時代や歌い手によってさまざまなヴァージョンが存在します
なので歌詞については「学校及家庭用言文一致叙事唱歌 第3篇戦友(明治38年初版)」を参照し、歌い手による歌詞の差異は歌唱者の発音に歌詞の方を合わせています
3番の「鯛乃宮」は呉市内の西三津田地区にある神社
(「鯛之宮」とも書くようですが、現地の鳥居に「鯛乃宮」と書かれているのでこちらを採用)
佐久間艇長の第六潜水艇の慰霊碑があり、呉海上自衛隊が参加する追悼式が毎年おこなわれています
冒頭の画像は今も現役の呉鎮守府庁舎
(現在の名称は海上自衛隊呉地方総監部第一庁舎、右端の見切れている建物が第二庁舎だったはず)
建物の中では海上自衛隊のみなさんが普通に日常業務をされています
(画像は戦前に撮影されたもの)
他の画像は呉海軍工廠で建造中の空母蒼龍や戦前の呉市内の風景などを入れてみました
歌詞は聞き取りです
作詞者の弓削達人は奥野椰子夫の変名
今回の映像はその中の1つ(1:15~)
まあ、超有名曲の「麦と兵隊(東海林太郎)」ですら全5番が歌われることはほぼないので(3番の「眼ひらけば砲煙万里」のところが飛ばされるんだよね)、そういうものだと諦めるしかありません。
歌詞の最後で「遥かに睨む武漢の地」と歌っていることから、武漢作戦に参加している部隊(5番で長城、6番で徐州と転戦しているので第二軍なのはほぼ確定。武漢北方の山岳地帯を進撃している模様。柴野中佐の実体験かな?)ということになりますが、なんでそんなに暑いのか?
調べてみたら、武漢は古くから「支那の三大火炉(火炉とは、かまどとかボイラーという意味)」と呼ばれているくらい暑さで有名なのだとか(残り2つは重慶と南京。3つとも蒋介石の根拠地だったというのがなんとも・・・)
真夏にそんなところを目指して行軍したら、そら倒れる兵士が続出するわな。
資料には次のようにあります。
「炎熱燃ゆるが如く、連日連夜不眠不休の行軍、戦闘、加うるに飲料水なきため、過疲による患者多発。風土病、マラリア罹病者多きも、衛生機関無く徒らに苦しましむるのみ」
「陽光は兵器をはじめ身につける金具のすべてを、さわれば火傷するように熱し、水筒の水を熱湯に変え、飯盒の米飯を一時間で腐敗させた」
その状態でよく勝てたな(というか、よく戦えたな)
昭和12年7月29日午前3時ごろ、通州事件発生。
これにより通州にいた日本人居留民が200人以上も虐殺された。
当時、日本軍守備隊(歩兵第二連隊・萱嶋高大佐)は北京郊外の南苑を攻撃するために留守にしており、残っていたのは藤尾心一中尉の1個小隊約40人と兵站司令官の辻村憲吉中佐が指揮する自動車中隊(山田正大尉)約50人、その他の軍人を合わせても、およそ110人。
この少人数で叛乱を起こした冀東(きとう)防共自治政府保安隊(約3000人)を相手に奮戦したものの、守備隊本部に籠城するのが精一杯で、400人近い日本人居留民を守るのはどう考えても不可能。
(最初から通州にいた保安隊の叛乱なので、どうにもならない)
通州の日本人の所在地(旅館、食堂、民家などを含む)は次々に襲撃された。
特務機関長・細木繁中佐は混乱の中で斃され、補佐官の甲斐厚少佐(1:13~ 画像の中央左寄り、右手に日本刀を手にした白鉢巻の軍人)は非戦闘員11人とともに勇戦するも無念の戦死、警察署にいた6人の警察官も死闘の末に家族もろとも惨殺されてほぼ全滅(警察官の妻が1人だけ生き残った)、守備隊本部屋上で応戦の指揮を執っていた藤尾中尉も戦死した。
7月30日の夕方、救援のために南苑から引き返してきた歩兵第二連隊が見たのは、虐殺された200人以上の日本人居留民の無残な姿であった・・・
・・・虐殺の凄惨な被害状況はみなさんで調べてみてください・・・
日付が昭和20年8月15日13時となっており、終戦の詔勅(玉音放送)を知らずに本人に届けられたようです(手渡した直後に終戦に気付いたっぽい)
このため本来切り離されるはずの受領証が残ったままの状態とのこと
颷風(ひょうふう)・・・つむじ風。吹きあげる激しい風。炎が舞い上がり飛び火する。火の粉が飛ぶ。
海若(かいじゃく)・・・海の神。海神。わたつみ。
檣楼(しょうろう)・・・艦船のマストの上部にある、物見の台。
映像・画像は満洲関連のものをかき集めてみました
画像は佐世保鎮守府に縁(ゆかり)のある艦艇(佐世保鎮守府に所属とか、佐世保海軍工廠で建造など)をかき集めてみました。
いわゆる「バターンの行進」は、日本軍が米軍捕虜と難民と化したフィリピン人に対してかなり非道なことをしたように言われていますが、この映像を見る限り、そんなことはないように思います。
交渉の結果あっさりブロック解除、バンダイナムコアーツ(Bandai Namco Arts)が認めてくれたようです、マジでうれしい!!
抜刀隊(ガールズ&パンツァー版)
youtube.com/watch?v=4x8OZo9zb64
追記
2021年3月17日、抜刀隊と同じように検閲によりブロックされ視聴不可になっていた「ほんとにほんとにご苦労ね(ザ・ドリフターズ)」の規制が解除され、視聴可能になりました。
こちらは2020年3月29日に志村けんさんが亡くなられた直後にブロックされて視聴不可になったのですが、なぜ突然規制が解除されたのかよくわかりません(抜刀隊の影響?)
(2021.3.17)
ほんとにほんとにご苦労ね(ザ・ドリフターズ)
youtube.com/watch?v=YTc5R-DylVI
この音源は他の方々もアップしてないみたいだし
映像と画像は手持ちの資料から掻き集めたもので、けっこういろんなものがありました
(空の神兵は今も昔も大人気!)
ところで・・・
2:26あたりから登場する、風にあおられた兵隊さん、ケガするぞ・・・
支那事変を含む大東亜戦争で出征した軍馬は数百万頭とも数千万頭ともいわれていますが、無事に凱旋帰国を果たし故郷で余生を送ることができたのは、たったの1頭だけといわれています。
昭和12年7月28日早朝、前夜からの暴風雨の中、陸軍航空隊の島田部隊は天津飛行場を出撃して北平郊外の南苑を爆撃。
爆撃に参加した小杉伍長操縦・行本伍長射撃の機体(たぶん八八式軽爆撃機)は、地上50メートルの低空から爆撃して機銃掃射を敢行したものの、敵軍からの猛烈な対空射撃により20数発を被弾し、2人は重傷を負ってしまった。
小杉伍長が操縦困難であることがわかると、行本伍長は必死に後部座席から操縦席に移動して操縦桿を握り、機体をフラフラさせながらも天津基地に帰還。
先に帰還していた戦友たちが機体に駆け寄ると、行本伍長は血まみれの小杉伍長の遺体を抱きかかえて操縦桿にしがみついたまま絶命していたという。
南苑攻略作戦は航空爆撃に呼応した地上部隊の活躍により、その日の夕方までに制圧が完了。
しかしその夜、作戦参加のために地上部隊が留守にしていた通州で大惨劇が起こる・・・
恨みは深し通州城
youtube.com/watch?v=DPEkV-CjdE4
行本 信雄(ゆきもと のぶお・岡山県赤磐郡出身、浜松飛行学校卒業・享年24・戦死後、軍曹に進級)
小杉 慶造(こすぎ けいぞう・青森県弘前市出身、熊谷飛行学校を経て所沢航空隊第二期を終了・享年21・戦死後、軍曹に進級)
いろいろ調べたけど、資料によって細部が少しづつ違うんだよなぁ(行本伍長の名前が信夫だったりとか・・・)
本年も少しづつのアップですが、よろしくお願いいたします。
映像の中の練習機の垂直尾翼に描かれている「丸の中に横棒が1本」の絵柄は、熊谷陸軍飛行学校の部隊マークです。
ところで、4番の歌詞の1行目の部分ですが、「御稜威ケ原(みいづがはら)の夕月に」が正しい
資料では「行幸ヶ原(みゆきがはら)の夕月に」となっていますが、日本に「行幸ヶ原(みゆきがはら)」という地名は存在しないようです
(栃木県宇都宮市に名前のよく似た「御幸ヶ原(みゆきがはら)」という町(軍事演習の視察のために明治天皇が行幸された後、御幸ヶ原と呼ばれるようになった)はありますが、航空隊との関係はなさそう)
では、「御稜威ケ原(みいづがはら)」とは何かというと、当時の熊谷陸軍飛行学校の「住所」
(「御稜威ケ原(みいづがはら)飛行場」でネット検索してみて下さい)
立花ひろしと宮城しのぶも「御稜威ケ原(みいづがはら)」と歌っていますね
以下、航空自衛隊熊谷基地のHPより転載(一番下の行に注目)
□昭和天皇行幸
昭和13年10月10日(月)天皇陛下が熊谷陸軍飛行学校に行幸され教育状況を御覧になられた。
□学校長である江橋陸軍中将は、この日を記念して、この地を「御稜威ケ原(みいづがはら)」と命名して、記念碑(下写真)を中央格納庫と第二格納庫の間の中央道路の真中に設置した。併せて江橋学校長は※「さしつけに 仰ぎまつれる 大御稜威 伝えてはげめ 空の益良雄」と歌い、記念碑に記した。
※現代訳「直接に見申し上げた 天皇陛下の御威光を 皆に伝えてはげめ 空の勇者達よ」
なお、「御稜威ケ原」の名は、現在、基地周辺の住所名及び通り名としてもそのまま使われています。
mod.go.jp/asdf/kumagaya/Base_tour.html
動画の映像がコレなので、アニメ嫌いの感情的な検閲担当者(←コイツについては抜刀隊を参照されたし)が襲来するかもしれません
何度でもアップするけどね


